シルバーライフ まっぷ

菊の露 残月 菊の栄 重音会 筝曲演奏

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古典文学と古典の筝曲

徒然草の第一三段に「ひとり燈火のもとに文(ふみ)を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」」というのがある。文章は、時代を超えて著者と読者を繋ぎ得る。音楽は、即時性、刹那を基本とするの芸術だろう。録音技術の発達で、かなり埋められるようにはなったものの、洋楽、邦楽問わず、ライブに勝るものではない。
演奏者の技量や演奏は、時間を越して残りにくいものでも、古典音楽のメロディや歌詞は歌い継がれ、奏で継がれてきた。古いものがなんでもいいわけではないのだが、継承されてきたことそのものに、そして継承してきた方々には敬意をもちたい。
「見ぬ世の人を友とする」 古典音楽に接して、こんなことに思いがいくのは、きっと俺も年をとったのだろうw

第21回の重音会 筝曲演奏会

2013年4月7日 日本橋公会堂で行われた。金津千恵子氏の主宰する重音会が主催しており、12時開演、18時半までという長丁場だが、後になるとキャリアの長い人達や賛助出演のプロの演奏が聴ける。今回俺は17:00に最後の3曲を目当てに行かせてもらった。それでも1時間30分。十分にお腹いっぱいになる。真面目に聴くとなると、そんなに長い時間聴けるもんじゃないw日本橋公会堂は、東京メトロ半蔵門線の水天宮前駅が最寄り駅だ。風は残っていたが、前日の春の嵐の雨もあがって、いい会になっていたと思う。

菊の露

三絃:金津千恵子 尺八:善養寺恵介。二人の奏者とも、過去何回か拝聴させていただいている。
三味線と尺八が一人ずつの場合、下手なペアだと、三味線とのバランスがとれていても、尺八の音が勝って歌が聴き取れないことがある。古曲の歌は、音程が低めのシブイ旋律も多くで、尺八が主張しすぎて邪魔になってしまうのだ。
今回の演奏では、そんな居心地の悪さはまったくない。俺は自分で演奏しないど素人なので、もしかしたら細かい技法の何かはあったのかもしれないが、素人にはわからない。
「秋の風まで」の歌詞まで、純粋に楽しめた。
金津千恵子氏の演奏は昨年も聴かせていただいたが、今回は印象がまた違う。曲調もあるのだろうが、抑え目でありながら深さを感じさせる唄だったと思う。

菊の露は、泡盛を作る沖縄の酒屋さんとは関係がない(・・・と思う)酒屋さんが、哀れな女性の身の上の地唄を意識して命名をすることはないだろう。むしろ、9/9の重陽の節句の菊からのお目出度い意味での命名だろう。菊水というお酒もあったな。
とりあえず、泡盛、菊の露の紹介w


残月

三絃本手:芦垣美穂 中田久美子
三絃替手:金津千恵子
尺八:善養寺恵介

この曲順はなかなかすごいと思う。菊の露の後、さらに残月である。菊の露の前、アナウンスで追悼演奏の意をこめての演奏との説明があったので、なるほどとも思う。

三絃本手、三絃替手が、それぞれソロで歌うパートがあるが、歌い方の差がよくわかり興味深い。同じ曲でも、歌い手でここまで印象が変わるものかとも思う。ソロはソロで面白かった。尺八もしっかり合わせる・・・というより、歌を活かす吹き方じゃないかと思う。尺八の善養寺恵介氏の主宰の演奏会ではご自身が主役だったが、今回は、ちゃんと仕事をしているんだなぁという印象だ。

素人ながら首をかしげてしまったのは、ユニゾンにしているパートだ。2人、3人の三絃本手、三絃替手が同じ旋律を歌う構成にしていたのだが、どうも何だか・・・な印象なのだ。キレイに響いていることが大半なんだが、時々、音程によっては、ひとりの声しか残らない。今までユニゾンでふくらみと厚さがあっていい気分で聴けていたのが、急にハシゴを外されたというかなんというか。また、歌い手にそれぞれ特徴があり、それぞれ上手な人達ばかりなので、ソロで聴いているときには、よかったのだが、ユニゾンにするとその差が違和感いなってしまったと思う。
編成、構成とう大袈裟な言葉でもないが、分担の問題だろうなぁ。無理にユニゾンにしないでソロを交替でやるほうがいいんじゃないかと思う。

菊の栄

筝独奏、三絃独奏。第1筝 5、第2筝 5、十七弦 4 、三絃 5 、尺八8、笙 1、内物 の大編成。これは古曲ではなく宮城曲だが、非常に楽しめた。
第1筝と第2筝は、女声2部の合唱もしているのだが、これもきれいに響いていたと思う。打ち物が入る編成だと、不自然なボリュームになってしまっている演奏もあるのだが、加減が気持ちいい。
晩年に作成されたとされる宮城曲なのだが、オーダーされて作曲されたという。追悼のためでもあり、またクライアントの一門の繁栄を願うことが主旨の曲だ。
なんだか、フィレンツェの貴族とか、パリの宮廷のパトロン達、教会などが、音楽や絵を発注して産み出された高度な芸術のことを思い出した。
芸術家が、制約なしに、自由に個性を発揮することが真の芸術活動であるという主張がある。個人の才能を開放しないと、素晴らしい芸術はできないのだそうだ。が俺には受け入れがたいw バッハやモーツアルト、ミケランジェロなど、クライアントの注文に応じて作品を作ったわけだが、それが素晴らしくないと言うのは無理があるだろう。宮城曲も、作曲者が自由に思いのままに作成した曲もあるが、こうしてオーダーをうけて、注文主に気に入られることを目指して作成された曲も、また立派なものであると思う。
個性至上で、そればかりを主張するマヤカシや、わがままの言い訳は、もうご馳走様の気分になってるのは、やはり齢のせいだろうかねw
シルバーライフをどう過ごすか、それぞれの考えがあると思う。いやいや、このご時世、死ぬまで現役で働きますという人もいるだろう。俺も会社勤めでないが、意志と気力のあるうちは、働くとは思う。
一方、それだけでは人生もの足りない。好きなことをやるのもいいだろうし、芸術もまったくわからないままじゃあ、勿体ないように思う。生涯学習は、何も塾や教室に行くだけじゃない。地味に重ねていると、何だか少しでも、感じるものが出てくるだろう。
齢を重ねても、金儲けとギャンブルと酒の話だけじゃ、あまりに悲しいと俺は思う。